コロナ禍で世界のあり方が変わってから、かれこれ1年半が経過しました。
接触による感染機会を減らすために3密を意識する毎日が続いています。1年半も経って、第五波がやってきたとテレビで報道されても、もう心が動かないんですよね。なぜなのだろう。
自分はワクチン打ったからコロナは他人事になった?いや違うんです。毎日の感染者数が4桁を超え、重症者病床の使用率が徐々に上がってきているのは理解するのだけど、もう「やれることはやったじゃん」感が強いんだと思います。2020年の緊急事態宣言の際は、経済が止まりかけるほどの自粛をしました。私が勤める会社でも「よほどの事がなければ出社してはいけない」との指示が出ており、数ヶ月ほど自宅テレワークの日々が続きました。その後、新型コロナとの付き合い方に社会全体が慣れてきて、3密回避を意識した行動さえ心掛けておけば、経済活動と感染予防の両立ができる風潮になっていました。GoToキャンペーンが好評だったのも記憶に新しいですね。
いま、デルタ株による第5波がやってきて感染者数が日に日に伸びてきているけど、会社からは「自宅でできる業務は自宅でやるよう徹底してください」の指示があるのみ。結局、出社した方がコミュニケーションの質も上がって「楽」だから、みんな何だかんだ理由をつけて出社する方向で社会が動いているんですよね。リモートワークを徹底したところで、自身の成果が上がらず業績評価が落ち込んでも国は補償してくれない。業界は違えど、飲食店も全く同じ状況で、公助のために営業自粛要請が出ているものの、多少の協力金が出てももはやニッチもサッチもいかない状況。そりゃ、休業要請でてもヤミ営業する飲食店出てくるわな。
ということで、すっかりハンマーが効かなくなってしまった第5波がどういう形で収束していくのか気になるところではありますが、この1年半、不要不急の外出自粛生活を続けてきて自分なりに人生に必要な要素が見えてきた気がするのでここに書いてみます。
食べることに飽きてくる
GWや盆休みなど長期休暇も基本的に自宅周辺で過ごす日々でした。学校が休みの子供達も外遊びは自粛しているので基本的にずっと家にいます。よく、世のお母さん方が「夏休みは3食作らないといけないから苦痛」と仰る理由がよくわかりました。レパートリーも無尽蔵にあるわけでないし、レシピをみて研究していたのも最初だけ。家にいて運動不足になるから大してエネルギーも使わず腹も減らないのもあって、特に食べたいものがなくなってくるのです。私はスーパーの食材売り場が好きで、旬の野菜や魚をみてどう調理して食べるかを考えるのが好きだったのですが、もはやその気力も出てこない。何食べても味はだいたい同じだよねー、みたいに、完全に感情が薄れてしまっています。
思えば、その昔に妻子が実家に帰省した際「これで好きなもの食べ放題だ!」と喜び勇んだものの、食べたいと思っていたものは数回で食べ切ってしまい、あとは一人の味気ない食事が続き、家族集結の日を心待ちにしたものでした。いまはずっと家族と一緒ですが、食べたいものがあっても欲望が一巡したら飽きちゃうものですね。
なお、以前は子供たちは回転寿司での外食にめちゃめちゃテンション上がっていましたが、今はそれほどでもなかったりします。お寿司は好きなのでお店に行ったらちゃんと食べるんだけど、レジャー感がなくなって単なる食事の場になってしまいました。
宝くじが当たって億万長者になったら何をしたい?みたいな質問がよくあり、お金が無尽蔵に湧いてくる状況なら毎日豪華な食事なんだろうなーと妄想したりもしましたが、おそらく私的にはすぐに飽きてしまいそうです。
同じ空間に居続けると息苦しい、外の空気を吸いたい
郊外の戸建てに住んでおり、都心のマンションの方に比べれば閉塞感は随分マシだったものと思われます。大して広くないですが庭もあるし、テレワークの合間に日光浴したりしてバカンス気分を楽しんだりしたものでした。それでも、家の中や家の周囲をちょっと歩き回るだけの毎日に辟易してきます。毎日同じ顔ぶれで(家族ですけどね)、3食を義務のように食べ、テレビをつければ新型コロナの話題ばかり。そりゃみんな気が滅入ってきますよね。外の空気を吸うというのは、必ずしも外気を吸うことを意味していないのだと気づきました。換気をしたり、庭に出て深呼吸すると確かに違うのだけど、それだけでは満たされなかったです。外の空気を吸いたいというのは、他の人が往来している空間(シャバですね)に自分の身をおきたい、ということだった、と気づきました。
趣味:人間観察
私が若い頃、「趣味は人間観察でーす」みたいな、ちょっと斜に構えた発言をする人がいましたが、言い方はともかく他人を見ていると楽しいものです。対象物をじっくりと見る必要はなく、対象物とコミュニケーションをとる必要もない。ただ、誰かを見ていたいのです。同じ人をじっとみなくてもいい。都会の雑踏の中で、行き交う人が次々視界に入り、その人の特徴から勝手にプロファイリングを始めちゃう。あの人は急いでいるな、きっと待ち合わせに遅れまいと急いでいるのだろう。手に持っている紙袋に入っているのはおそらくXXで、、、みたいな超勝手な妄想をしながら他人を見るのがものすごく楽しいんです。
コロナ前、私が日常生活の中で得ていた大きな愉しみ。実は「大量の人間観察」だったのではないかと思い始めています。場所はどこでもいいんです。同じ電車に乗り合わせた人でもいいし、スーパーで見かけたお客さんでもいい。視界に入ると、その人がどんな人なのか脳内でプロファイリングを始めちゃう。声が聞こえようものなら、その声を元に性格を勝手に分析し始めちゃう。レジなどでなんでもないコミュニケーションを取った瞬間に、人となりがわかる。そうやって同じ空間にいる他人を把握し、自分の人生への影響や、その人の人生を垣間見ることが楽しいんです。
そう、私は基本的に人間が好き。博愛精神に溢れているわけではないし、決してたくさんの人と深い関係を作りたいとも思っていないのだけど、他の人が何を考え、どう行動しているかを知り、想像していくのが好き。コンビニやスーパーでは陳列や商品ラインナップ更新による情報追加でリピーターに飽きさせない工夫をしていると聞きますが、私にとっては、それよりもそこに来ている人がどんなシチュエーションなのかを知り、何を手にしていくのかを見るのが好き。新型コロナの自粛生活で、私自身の人生のコアにあたる部分にたどり着いた気がしています。金八先生みたいですが、人間は人と人の間ではじめて人間たるものであり、私が人間であるためには人と人が行き交う「社会」に所属し、単なる傍観者としてではなく、社会を回す一員としてなんらか役割を持って生きていくことが幸せなのです。テレビの中にある、作られた人物像やコンテンツにはあまり興味がなくなってきており、生の人間がどう生きているか(平凡でも良いのです)に興味があります。もちろん、何かを成し遂げた人のストーリーを知るのも面白いですけどね。
そんなことを考えながら、晴れ間の見えた夕方を自転車であてもなく走り回っていました。自転車はいい。歩くよりもたくさんの人とすれ違える。たくさんの人生ドラマがみれる。